昭和47年4月13日 朝の御理解 (末永信太郎)
御理解第93節
氏子は神の守りをしておる者を神と心得て参詣する。守りが留守なら、参詣した氏子は、今日はお留守じゃと言おうが。神の前をあけておくことはできぬ。万事に行きとどいた信心をせよ。常平生、心に裃をつけておれ。人には裃があるが、神には裃がない。人間はみな同じように神の氏子じゃによって、見下したり、汚がったりしてはならぬぞ。
行き届いた信心をせよ、と。常平生に、心に裃をつけておれ。人間はみな神の氏子じゃによって、見下したり汚がったりしてはならん、と。まあ、今日の93節から、まあ、今日は私が大事と思うところを申しました。ね。万事に行き届いた信心をせよ。常平生、心に裃をつけておけ。
人間はみな神の氏子じゃ。見下したり、汚がったりしてはならん、と。これがもちろん、お道のいわゆる教師というか、まあ、御取次に専念させて頂く者に体する御理解と思われます。ね。お参りをしたところが、御結界には誰も先生がおられなかった。本当に何かお参りした者は寂しい。神様はござるけれども、やはり取次者がそこに、御結界にちゃんと奉仕しとて、初めて、まあ、よかったとこう思うたり、いたしましょうに。それと反対に、本当に神様がお留守のような気がするという訳なんです。だから取次者たるもの、いつも心掛けておけ、いつも心に裃をつけたような心持ちでおれと、こういうことなんですけれども。
これは取次者に限ったことじゃないですよね。金光様の御信心をする、頂く者がすべて、こういう心掛けで信心のけいこをさせて頂かなければならん。私は、昨夜は夜の御祈念ちょっと時間を遅らせまして、8時からの御祈念です。で、私がここへ着いたのは、もう8時半でございましたから、もう、御祈念も済んで、ちょうど昨日は幹三郎が当番で御祈念。
そしてちょうど、お話を、もう終わろうとしておるところでした。けれども私は、私は話したことでしたけれども、はあ、今日は本当に、もうご無礼しようかと思うことがあったんですけれども、他に用がありましてもね。けれども、まあまあ、とにかく風呂からあがったばっかりの格好をしてましたから、慌ただに紋付袴つけてここへ座らせて頂いたんですけれども。
はあ、本当、今日はここに着かせて頂いて良かったと、私は皆に話したことでした。その幹三郎の最後の話を頂いて、有り難いと思うたんです。というのは、こんなことをお話してるんですよね。どんなに金光教が素晴らしいて、名教だと言われても、どんなに合楽で頂く御教えが素晴らしいと言うても、ね、私どもがそれを頂いておかげを受けなかったら、名教もなからなければ、素晴らしい教えもないち。ね。
金光様に御信心を頂いておるということが、どんなに素晴らしい信心頂いておると言うても、いわゆる、ね、おかげを頂いて、初めて素晴らしい教えだな、素晴らしい宗教だな、と。自分がおかげを頂かなかったら、ね、どんなに素晴らしい御教えであっても、ね、もう、値打ちはないのだ、と。ね。もっともっと、実際は素晴らしいことでしたけど、私、ちょっとそれを、そのまま忘れましたけれどね、言えませんけれど。
どうして、まあだ、言うならば、今年言うなら高校を卒業した( )18でしょう、18になったでしょう、ことなんでしょう。どうして、あんなに度々、私は思うんですけれども、人の心に伝わって行くというか、感動を呼ぶようなね、もう、兄弟では一番お話は下手です。もう、それこそポツリポツリとお話します。そのポツリポツリの一言一言がですね、それこそ肺腑をつくような感じです。
ですから、こんなに素晴らしい、例えばお話が出けたからと言うて、ね、ただお話が上手だけでは助からない。彼自身が、なら一年何ヶ月前に、もう100のものは99は駄目だ、と。あと一つ残っておるのは、奇跡があるだけだ、と。ね。九大の(名義)と言われるような先生方がそう言われたんですから。
そういう中に、自分自身がやはり助かってるわけです。ね。以来、なら、自分の希望しておったこと、工業学校へ行って建築家でしたからね。けれども、そういうことは断念してしまって、もう、これからの自分の生き方というものを、お道の教師になっておかげを頂くという生き方ですから、まあ、ちょっとその、まあ、神様へ心を向けた出発点が違うわけですよね。
ですから、もう自分自身が教えによって、本当に助かろうと思うておることに一生懸命なんです。私、御祈念が終わってから、先生方ばかりで、また私は下りてから、またそのことを皆で検討し合いました。もう、今日は幹三郎が言うた、本当、先生方でもその通りですよち。先生の資格をもろうたとか、取次者とかと言うたってね、もう、本当に私どもがその教えによって、私自身が助からなかったら、人が助かるはずはないですよ。もう、自分自身が助かる、自分自身がその教えによって助かる時に、金光教の御教えは素晴らしいなあ、ということになるのです。
助かってなかったら、どんなに素晴らしい、金光教の御教えはこうだと、いくらそれを(空?)暗記して人に話せるようであっても、それはもう、値打ちはないのだと、こう言うんです。私はそれ、本当に息子のことをこんな風な表現をするとおかしいですけれども、ただ彼が一生懸命教えによって、私自身が助かろうと願っておるということをね、聞いて頂きたいわけ。ね。
だからあの、なるほど自分が助かって行きつつあるそのことをお話にさせてもらう時に、もう本当に一つの実感というかね、が人に伝えられるんだなと、私は思い、それを話した(言葉?ことです?)。ね。もう本当に自分が助からなければ。ね。肉体、例えば病気でもしたでもです、例えば医者は見離したというのでもです、ね、助けて下さる神様、その助かり、その体験が元になって、神様への報恩の思いが、もう弥が上にも募らせて頂いて、学校も断念した。そして、もう1年3ヶ月になりますかね。
私がここに3時半に出て参りますから、もう、3時15分にはどうしても起きらなきゃなりません。ね、それこそ、まるしょうでどこか行っておる時でもしない限りは、もう一日だって欠かしたことはありません。ね。一時の、まあ、言うならば(観賞?)だろうかとも思うておりましたけれども、自分がそれによって、本当に助からなければ、これから。ね。
体の上だけじゃない、自分の心の状態がいよいよ助からなければならないということに一生懸命。そこでです、私はその、一生懸命に教えによって、私どもが救われるというか、助かるということがです、ね、(かんだん)なしに、例えば常平生心に裃を着けておるような、とこう仰る。心になんです。今朝も私、大接(だい?)の控えで私がこうやって、幹三郎が前に座っておる。ちょうど、その半ばでした。
今、ふすま屋さんが来てから張り替えをやってますから、そこがおっぽんぽんなんですよ、私の部屋。こちらの楽室との境のところも張り替えておる。昨日、そのふすま屋さんが言ってるのに、あそこのところも先生、ふすまが真っ黒になっとりましたから、あそこも貼り帰るように致しましたと、こう言うんですよ。
もう、一枚だけはそれをとって、もう、張り替えをしてある。はじめに私に聞くなら、まだまだ、よかよか、というとこでしょうけれども。これは、あの、お広前関係だけは全部おかげ頂きたいという人があってね、ぜひ、御大祭前におかげを頂きたいという人があって、今、それをしておられる訳なんですけれども。
本当に、何ヶ月前だったか、ストーブのちょっとした何か失敗からね、(いえのいっぱれて?)もう、あの部屋中が真っ黒になったんです。ですから、真っ白のこのふすまですから、煙が出ておるところが、ここだけ真っ黒うなっとるわけ、真っ黒というが、こう赤くなってる。
本当にもう、有り難いなあ、神様が例えば、はあ、アンタどんが油断しとるけん、こげん真っ黒になったなんて言うことも何もいらん、と。ね。もう、ここがちょうど五年になりますから。張り替えて頂くということになると、新しゅうなるわけですけれども、本当に神様の深い深い御神意があってのことなのですよね。ね。あの時に真っ黒になってなかったら、あの、ふすまの張り替えは出けなかったかも知れません。
もう、ですから、ついでにお広前関係だけは全部おかげ頂きたいと、こう言うておられます。ああもう、正面玄関のあそこだけでも、ああ、子供が筆でこうやって書いた。ほれで、もう裏返しにしてから、その、使っておったような状態でしたけれども、大祭もそれ全部おかげ頂きたいと、こう。
本当に神様のお働きの中に間違いはないなあ、と私が思うたんです。思うた途端に、もう私の控えに、もういっぱいに響くようなお勇みでした。ですからね、どうしてかとか、困ったねとかということは絶対あり得ないのです、本当はないのです。それを、はあ、しもうたのとか、そりゃ困ったねとかと、いわゆる自分で困ったものにしてしまっておるわけ。ね。
私は昨日、そうして先生方と御祈念が終わって、先生方ともう本当にその、とにかく問題は私自身が助かる以外にはない。教えによって私が助かる。もう、しかも限りがない、この助かるということにおいては。と言うて、まあ、お話をして裏へ下がらせて頂きましたら、ちょうどテレビで(おのえばいこう)さんの踊りがあっておりました。したら、昨日はその、何か鏡獅子というて、有名な舞踊劇ですね、の話を、色々な話を交えて、あの、稽古から最後の舞台になるまでの、まあ、経過を見せておるのでした。
(ばいこう)さんが言われるのに、子供の時からこの鏡獅子は、もうお父さんの、これはもう、名品絶品と言われるほどしのでしたからね。ですから、それを受け継がせて頂いて、子供の時から何百回踊ったか分かりません。ね。けれども、さあ、いよいよ、今度また鏡獅子を出すということになりますと、もうとにかく、あのそれだけ、(ながうたれんちゅう?)はもちろん、(なりもの?)から全部、その、本番でやる時と同じことで稽古をまたつけてもらう。そして、(おその師匠さん方?)にずっと、それをまた見てもろうて、その度々に駄目を押してもらう。そして、そこんところを、もう改め改めして行く。
これはおそらく私が、鏡獅子をやる限り、一生これやるなら一生、こういう風に、まあ、一回の踊りに対してどれだけ(また七十回の?)けいこをするか分かりませんということを言っております。そして、だんだん、もう、いよいよ舞台にかけるという前には、もう、衣装も全部そのまま、もう、(なりものながうた練習まで?)、もうちゃっと、ね、裃みたいなものを着けましょう。それを着けて、その本当の舞台と同じことをしてから、稽古をしておる。それこそ、なるほど、絶品と言われ、(衆力?)のようなと言われるためには、そのような精進が日々というか、そのことのために精進されておる。
もう覚えっしもうたから、もう、それでいいといったようなことは絶対有り様がない。信心はもう、なおさらそうです。もう、あの話は前にも一遍聞いたという、ただ、拝む道を覚えた、祝詞がもう暗記した、教えも金光様の御教えは覚えたというだけではいけないことをね、私はその鏡獅子のずいぶん長くあってましたが、最後まで見せて頂いてから、もう本当にこれだなあ、と。
大祭なら大祭を仕えられます時に、私は副祭主を勤めますから、ね、やはり私が(かいひ)をいたします。もう、簡単な言うならばことでございますけれども、私は大祭の前日に、前夜祭が終わった後に、また楽人さん達に一遍弾いてもろうて、必ず稽古致します。だいたい、私は頭が悪いから忘れとることもありますしね。けれどもやはりです、おそらく、私があの副祭主を仕える限りは、かいひの稽古は、私は前の晩に必ずするだろうと思います。でないと、さらなものが生まれて来ないです。
もう、あれは覚えとるからと言うて、覚えとるからと言うので大祭に臨んだだけではね、もう、それは同じことですけれども、私はその、生き生きとしてものが生まれて来ないと思う。ね。私は常平生に、心に裃をつけておれといったようなことは、そういうことではないかと思う。
ね、それは裃着けてなくても良いのですよ、心に裃を着けておけ、と。いわゆる、油断をするなということです。万事に行き届いた信心をせよ。もう、度々に思うのですけれども、さあ、大祭の例えば後に反省会を開かせてもらいます。それぞれに、もう手の内にあることばっかりのようですけれども、やはり反省会をしてみると、それこそ駄目が出て来るんです。ね。そして、そこを改め改めして、やらせてもらう。
人間はみな神の氏子、神の氏子じゃによって、見下したり、汚がったりしてはならん。いわゆる、人を軽う見なということです。もう、これは本当にあの、おかげを頂っきらんじゃなくてから、おかげを落としますね。ね。人間には、例えば上下がある。例えて言うならば、社長さんもござりゃ、重役さんもござりゃ、課長さんも平社員もおるというように、上下がある。けど、神には上下はないと仰る。
みんな神の氏子としての、一視同仁の見方。器量が良いから、衣装が良いからと言うてです、それを、ね見下したり、汚がったり、とりわけ、その、高く評価したりといったような心の状態ではならんぞと、きつくこれは、まあ、取次者に対して、どんな人でも参ってまいりますからね。
私は、もういつもそれは思うんですけれども、御取次をさせて頂いて、簡単なことのようにお届けをして行く人があるですね。例えば、先生、今から久留米に行きよりますけん、どうぞよろしくお願いしますちいったごたる風で行く、と。ああ、そうね、なら行っといでと口には言いよるけれども、そういう時ほど真剣に神様にお願いしなきゃならんような気が致します。
何か重大なことが起こって、それこそ(おいおいしゅう?)お初穂を奉って、こうこうでございますと言うてお願いをすれば、それがいわば、そういうのは丁重に御取次をするといったようなことではない。ね。それはもう、電話でお願いされても、やはり、なあなあであるほどに、慎重になります、私は。ね。
昨日も、ちょうど昨日は美登里会でした。半ばに、「只今、小野先生から電話がかかって来た」とこう。双子なんですね、それがもう、その、一人は出たですか、で後がどうしても、その、もう何時間かかっとりますけども、出ません、と。そして、その母親が痙攣を起こし出しましたから、母親の方が難しい、と。
どうぞ、御取次をお願いします、と。ちょうど西岡さんが奉仕しておりましたから、そのことをすぐ、お届けに参りました。すぐ、あの、御取次させて。もう、こういう時にですね、電話どんかけちから、ちょいと看護婦どんやりゃよか(とに?)という風に私が思うたらです、もう、おかげ頂かんです。これは、もう不思議です。ね。それだけ、いわば軽く見るからです。ね。
ですから、私はもう、ここに御取次を願いに来たと同じ気持ちで御取次をさせて頂くです。それから、1時間後ぐらいでしたか、また電話がかかって参りました。ね。おかげを頂いて、痙攣も止まった、後の子供も、これはもう死産だったそうです、後の子供は。で、おかげで、一人はとり止め、母親は、もう大丈夫というところまでおかげを頂きましたからと言うて、お届けがございました。
もう、私はちょっと風呂からあがってから、控えに下がっとりました時でしたから、あの、西岡さん、その時も西岡さんが奉仕しておりました。西岡さん、そういう御取次はね、いよいよ慎重にならなけりゃいけないよ。はあ、おかげを頂いて、貴方のおかげで一人は無事に助かりました、けれども一人は死産でした。
母親も痙攣が起こっておりましたけれども、おかげで助かりました。けれども、その死んで出て来たその子の御霊のことばしっかりお願いせにゃいかんよ、と言うて私はまた一段、そのことだけは特に、これもお取次者としての神様へ向かう態度なんだ。ああ、そりゃあ、良う腑が良かったですね、一人が助かって。まあ、とにかく母親が無事だったら、もう、それで良かったになってしまうの。
死んで出て来たつは、もう、そのままなってしまう。そりゃ、病院辺りでは、それはもう、もう水子のようにしてしまうでしょうけれどもね、やはり神様から頂いた一つのお腹の中であった命をです、ね、そこでお腹の中で落としておるのですから、もうこれは、一つの御霊様と同じことだ。
だから、その後の御霊の助かりというものを願わせてもらわなきゃいけませんよ、と言うて、まあ、付け加えて御取次してもらったんですけれどね。私は本当に油断も隙も出けんなあ、と思うです。そういうことじゃないでしょうかね、見下したり、汚がったりということは、上下を付けてはならないということなんです。ね。ちょっと車でやらせて頂きますというようなことであってもです、ね、もし、なら久留米で行って、帰りがけ事故を起こしたなんて言うたら、結局、御取次のいわばミスと言わなきゃならないと思うです。
ね、ですから本人は簡単に、だから、帰って来てから、んなら、行って帰って来た時にゃ、とても寄りゃしませんも。そしてから、その明くる日参って来たかち言って、昨日は無事に帰っておかげを頂きましたとも言いませんもん。それでも、私はやはり、お願いをし、無事に顔を見ると、はあ、無事に帰って参りましたと神様にお届けしよるです。ね。
事柄が大きいから、事柄が重大だから、もう重大であれば重大なことほど、例えば願う者が真剣ですから、私は楽なんです、本当言うたら。けれども、願う者が重い軽いで、簡単なお届けをする時ほど、私は慎重にならせてもらうという、そういうことが、ここのところじゃなかろうかと思うですね。
見下したり、汚がったりしてはならない。ですから、これは人だけのことではありません。事柄の場合であっても、物の場合であっても、私はやはり御事柄として頂かなければいけないというように、物でも神様の御物として見なけりゃんなん、頂かなければならない。ね。こんくらいなもん、こんくらいなもんということがいけんのです。ね。道のいわば取次者に対する、これは、そのまま御理解ですけれども。ね。
それを取次者だけではない。なら、昨日、私が御祈念後に先生方に、問題はね、今日、幹三郎が言ったあそこんところを本当に頂くことなんですよ、と。でなかったら、これだけは素晴らしいお道の信心があっても、お道のしかも教師にまでお取り立て頂いても値打ちはなかっですよ、と。
本当に取次者自身が教えによって助からなければ。そこに初めて、金光教の素晴らしさ、御教えの素晴らしさを自分が実感するから、人に伝わる時にはあのような人の心に、いわば感動を呼ぶようなお話が出来るとですよ、と。問題は先生方自身が、本当に助からなければ、人の助かりの御取次が出けませんよ、と言うて、まあ、先生方にはそう夕べ話しましたけれども、これは皆さんの場合だってそうです。
問題は、ね、家族の誰彼、人間関係の場合だけは、相手が必ずある訳ですけども、相手がどうこうじゃない、私自身が本当に助からなければならんです。それが、教えによって助からなければならない。しかも、もう、助かるところの一つのコツ合いというものは覚えたと、それだけのものであってはならない。
もう、子供の時から何百回踊ったか分からんという鏡獅子をです、ね、いよいよ、それこそ絶品というところまで行くまでは、いわゆる、(ばいこくさん?)一生涯かかって、それを完成へ完成へということにして行くことでしょうようにです、信心も同じこと。もう、度々御大祭は同じこっじゃから、同じことをすりゃ良いのだから、もうそこにはね、精気というものが無くなる。ね。
改めた上にも改まって、稽古した上にも稽古させて頂いて、同じ(所作?)をするでもです、ね、そういう心掛けが大事だということになりますと、これはお道の教師だけではない、信者一同が頂かなければならないことだと、私は思います。常平生に心に裃をつけておれ、というところが素晴らしいでしょう。金光教の信心をすりゃ、いつも裃を付けとかんならん、紋付袴付けとかんならんということじゃないのです。ね。
もう、それこそ、寝る時には寝巻き一枚、ね、例えば私で言うなら、下がった時には、もう、ハッピども着ておる。ね。御神前に出る時には、なら紋付袴を着けますけれども、いつも紋付袴を着けとかにゃならんというところじゃないところは、私は素晴らしいと頂かなきゃいけん、と。ね。お道の信心の、いわば大きさなんです。と言うて、そんなら、心にはいつも裃を着けとかなければならない。
この、風呂が入っておっても、便所に行っとってもそうなんです。ね。例えば、私が今日、言葉に出したわけでもない。本当に神様の働きに間違いがないなと、ふすまのそれを見て思うた、もう瞬間に神様は大きなお勇みを持ってね、もう、本当に神様が守り通しに守っておって下さる。ね。働きの中にもです、ね、神様の御働きなればこそ、ふすまが真っ黒になっておる。だから、その、んなら、思いがけない人がです、ぜひ、大祭前にふすまの御用を頂きたいと、こう言う。
しかも、お広前関係だけは、まだ、言うなら正面だけでいいですよて私、いいえ、もうせっかくさせてもらうなら、お広前関係だけは全部おかげを頂きたいということにまでなって来る。ここがきれいになるだけじゃありません。それを、おかげを頂くその人が、今度はおかげ頂くとですよ。だから、素晴らしいでしょうが。ね。いわゆる、その人におかげの受け物、受け場を作って下さるんです。
ぜひ、おかげを頂きたいという、そういうところにまで、言うならば神様の思いというものは、行き渡っておる。そのような神様の行き届いた、ね、お働きを受けさせてもらう。そういう神様の行き届いたおかげを受けるために、ね、私どもがやはり、行き届いた信心をせなければならん。ね。そこで、んなら、こういう場合には、親先生ならどげな風に言いなさるっじゃろうか、どげな風な態度とりなさるだろうか、といったようなものがいつもなからなきゃいけん訳です。
昨日、私は夕食の時に嫁が奉仕をしてくれました。したら、ほんにこう行くと、沢山あの、(ごんばんど?)ばまいとるような、本当に私はそれを思うてからね、本当にあの、有り難いなあ、と思いました。そのことが、決して良いことじゃありませんです。そういうことは、むしろ止めなきゃいけないのです。けれども、私の家内が必ずそうするのである。お母さん、(ばんど?)はなかかち言って、はいち言ってから、手からこう取ってくる。もう、間に合うこつがばさらかで。(笑)
けれども、そげなこつは、私が見苦しかて私、家内言うとです。けれども、日の内にはどれだけバンドがその、なるじゃら分からんから、けっきょく腕に巻きつけたが一番早かわけです。それを、嫁がちゃんと真似して行きよるわけです。もう、本当にね、やっぱり姑親に似ろうとしておること。もう、姑親がすることを自分が身に付けようとしておること。もう、それが私は嬉しいと思いました。
もう、アンタはまるっきりお母さんのごつなってしまいよんの、と言うてご飯を頂いたことでございましたけれどもね。私はそう、良いこと悪いことに限らずですよ、やはり、親先生のものなら一遍真似ぐらいしてみろうという気にならなければですね、例えば、もう親先生は取次者じゃから、先生じゃからと言わずにね、いち、なら平の信者であってもです、いわゆる、そこんところをいつも感心をそこに寄せておく。
そして、真似からでも入って行くというようなね、生き方が大事じゃないかと思うですね。どうぞ。